夜10時、比良山系最大の登山口、イン谷口に車を止める。
比良山系は滋賀県の西に位置した1000m前後の山々を配した南北約30キロメートルに及ぶ山系である。
当然、駐車場には車は1台も駐車してません。ここが富士五合目なら駐車場も多くの人でにぎわうのだが、ここは京阪神では知られているとは言え、富士山の様に全国各地から人が集まってくる山と違い、全国レベルで言えばやはりマイナーな山なので誰も夜から登山を開始するような者はいない。

今回は比良山系の最高峰の武奈ヶ岳からのご来光を拝む目的の登山。
日頃の行いが悪いのか、前回は曇って全くお日様を拝むことすらできなかった。

今回は2回目、運が良ければご来光を仰ぐ事が出来るかもしれない。 期待薄な望みを胸に登山靴に履き替え、ヘッドランプを装着し独りで正面谷の駐車場を後にする。

さあ出発

最初は正面谷の砂防ダム建設用道路を登る。 谷沿いの道で、道路と言っても舗装している道ではない。しかも直径2m程度の落石が道路を塞いでいる場所もある。

正面谷の分岐点、大山口を右に。 ここからは終始登山道を進むことになる。
ヘッドランプで確認できる範囲は5m程度。 やはり足元を確かめながら登って行くので昼間と違い平衡感覚がとりづらい。 ストックを使いゆっくりと谷沿いの道を登っていく。

夜間に独りで登山道を歩くのが怖くないのかと言えば、全く持ってそんなことはない。
比良山系でも多くの動物が生息しているが、半数以上は夜行性と聞いている。 特に熊は夜行性で、聞くところによると匂いに関して犬の数千倍の能力があるそうで、行動範囲も通常で半径5km、エサが枯渇する時期などは25km程に及ぶそうだ。

夜の山々は魑魅魍魎の世界

それに、夜の山々は魑魅魍魎の世界。 星明りとは言え、谷の登山道は全くと言っていいほど漆黒の闇であり、百鬼夜行と言われるように、百の鬼が走り回る夜の山々は、人々に恐怖を抱かせる存在以外の何物でもない。
神隠しや、狐につままれて命を失う等、山にまつわる言い伝えは日本全国、いや全世界に数多く存在している。
だから、山は人に畏敬の念を抱かせるに余りある要素を含んでいると言える。

大山口から坦々とダケ道を登って行く。 この道は、登り、下り合わせて2百回以上通っている道で、コースだけではなく、どこにどんな岩があってどんな樹が生えているのか、ほぼ覚えている。 道は多くの登山者が使う道なので道が途中で判らなくなる事など、昼間なら通常ではあり得ないことだ。
だが、夜となると話は違ってくる、容易に道標を見落とすし、太陽の方向を確認できないので、おおまかな方位も認識できない。 また、まわりの尾根やピークが見えないので地図とコンパスで現在地を割り出すことも不可能になる。 はっきり言って道を外してしまったら、朝まで動かないほうが良い。

北比良峠に到着

2時間半ほど登ると北比良峠に到着した。 ここは視界も良く、琵琶湖の東湖岸の3分の1が見渡せる。
都市部ではないとは言え、滋賀の夜景も捨てたものではない。
ここからは武奈ヶ岳山頂が見える筈だが、山影さえ全く見えない。 北比良峠から直線で約3kmの距離である。 昼間なら、目を凝らせば人影が見える距離である。

北比良峠を後にして八雲ヶ原に進む。 八雲ヶ原には2張りのテントが張られていた。 ここは、比良索道(ロープーウェイ)があった頃、比良スキー場のヒュッテがあった場所で、ここにはその当時のキャンプ場があった。 スキー場がなくなった後もキャンプ地として利用する人が多くいたので、キャンプ適地として多くの登山者の知る所となる。 また水場も近くキャンプ地にするにはうってつけの場所だ。

人がいるだけで安心する

真っ暗だがキャンプしている人がいると思うだけで、なんとなく恐怖心も薄れてくる。 当然、熊が活動する夜間で、しかも独りで登山をしているので熊鈴を付けている。 私もよくここでキャンプするが、一人でキャンプをするからかテントの中では熟睡できない。 睡眠中は周りの音に敏感で、動物の足音がしないか、常に聞き耳を立てている。だから空が白み始めると心が落ち着き、気づいたときには、もう8時なんてことがよくあった。 だから、テントの中の人は鈴の音を逆に心地よく感じているかもしれない。 もし深夜1時に住宅街で熊鈴を付けて歩けば住民の怒りを買う事になるが。

八雲ヶ原を離れイブルキのコバに到着した。 ここから谷の登が始まる。 この辺りから武奈ヶ岳、スゲ原、広谷に於ける地域は鹿のテリトリーで、昼間でも夕方近くになれば鹿が威嚇してくる。威嚇してくると言っても きー きー と、音声を発するだけで、けっして人間に近づいてくることはない。 当然、鹿も夜行性の動物で、この時間帯は人間の来るところではないと言っているかの様だ。

この谷は黒い石が多く、LEDヘッドランプ程度のショボい光では石表面のぬめり具合が見えにくく、石が濡れているせいもあって、慎重に登らないと容易に足を滑らす。夜の谷の湿度はすさまじく高く、空は快晴でもザックが濡れてくる。

コヤマノ分岐を過ぎてU字状の道を進む。 ここまでくれば武奈ヶ岳山頂まではあと少し。 U字状の道を抜けたところで満天の星空。 標高2000m以上の山小屋やテンバ(キャンプ地)で泊まった経験のある方ならお分かりいただけるだろう。 ここの標高は1180m付近、2000mには程遠い高さだが、今日は空気が澄んでいるせいか、すごいものを見せてもらった。 満天の空から視線を下げるとびわこバレーの水銀灯の光が見える。 その向こうには、京都や大阪の夜景が広がる。
あまりの美しさに、約5分ほどその場に立ち尽くす。

鹿が威嚇してくる

山頂に着いたのは深夜3時過ぎ。 昼間と違い5時間近くもかかってしまった。
武奈ヶ岳山頂は、比較的広いく、休日の昼ともなれば多くの人で山頂は賑わいを見せる。 だが、今は、私一人だけだ。夜明けまで少し時間があるので、お地蔵様の北側でつぇるとにくるまり仮眠をとることにした。
きー きー きー 相変わらず鹿が威嚇してくる。 やはりこの時間、人がここにいてはいけないのかもしれない。 しかも、すぐ近くで泣いているのか、先程より鳴き声が大きくなった。 鹿の中にも人を恐れない強者がいるのかもしれない。

いろんな気を感じる

ここにくると魑魅魍魎の気配だけではなく、なぜか多くの人の魂を感じる。 私が初めて武奈ヶ岳の山頂に立ったのは小学2年生の頃、今から50年以上前の話である。 ここに立った回数は、もうすでに100回はとおに超えている。 もう何回登ったのかわからないくらいである。 私が子供の頃は、娯楽の少なかった時代だったので、その当時、この比良山系にも多くの人が登っていた。 初めて私が武奈ヶ岳山頂に立った日も多くの人でにぎわっていた記憶がある。 この山頂では、風の音に紛れて、昔の人の笑い声や、話し声が聞こえるような気がする。

私の父は仕事の傍ら滋賀で山岳指導員をやっていた。比良山系をこよなく愛した人でした。 昔上映されたヒマラヤ登山を題材に使った洋画で主人公の妹が「ここに来ると父の魂を感じる」といった言葉の意味が、私には理解できる。

ネイビーブルーの空が少し水色がかってきた。 もうすぐ夜が明ける。 朝露がツエルトを濡らす。 傍らに置いていたザックも同様。 ザックはツエルトの中に入れておけばよかったと、しばし後悔の念が心をかすめる。 日の光を浴びて、餓鬼、阿修羅の類は早々に退散したようだ。 なぜか山頂は静まりかえる。

ああやっぱりだめか

日の光が差し込む寸前、東側の谷からガスが昇って来るのが見える。またたくまに山頂はガスに包まれ真っ白だ。 約30分待ったが、時より谷方向の視界が少し開ける程度で日の出の方向は全くダメ。
5月下旬の休日の朝、ご来光をあきらめ、そそくさと帰り支度をする。

北比良峠まで戻り、武奈ヶ岳山頂を見てみると、山頂がはっきり見える。 気温の上昇や風、または湿度等が関係してガスに包まれたようだが、私にとっては、山が朝日を嫌っている様にしか見えない。
比較的気温の高い時期はこの様な事が起こるようだ。 

北比良峠を降りたところで、単独で登ってくる人が見える。通過するのを待って挨拶をしたら「泊ですか」と聞かれたので、夜間強行登山とは言えず「はい」と答えた。